タカサキきんこんかん

タカサキのキンコンカンの日々

「ざごうとでいます」?  なんのこっちゃ

 1月5日になってようやく年賀状ができあがりました。

「ざごうとでいます2018」なんて、わけのわからない年賀状です。

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 さしてうまくもないのに、こうやって年に一度版画を彫ります。鉛筆でラフに書いて、あとは行き当たりばったりで彫っていくので、字が収まらなくなったりしてすごく苦労するのですが、この行き当たりばったりの苦労がなぜか楽しくて、毎年彫ります。

 予定していたことが予定通りに行かないときの楽しさというか、だからこそ予定通りよりももっと面白いものができあがります。予定が予定通り行くのは当たり前のことで、そこには面白さも何もありません。予定通りに行かないときこそ、四苦八苦しているうちに、思いもよらないおもしろいものが見つかったりできあがったりするものです。

 と、もっともらしいことをいいつつ、字がまともに並んでないところはタカサキの人生そのもの。「ざごうとでいます」? なんのこっちゃ、という感じです。今年こそはすっきりきれいに、と思いつつ、気がつけばこんなふうにいつもなってしまうのです。

 というわけで今年も行き当たりばったりまっしぐらの人生。どんなことが待ってますか、わくわくドキドキの1年になりそうです。

 

 ★版画はとてもエネルギーがいります。トシのせいか、今年はこれを彫るだけでエネルギーを使い果たした感じです。いつもならこのあとはがきに刷るのですが、版画は刷るのにもものすごいエネルギーがいります。若い頃は三日くらいかけて200枚くらい刷ったのですが、悲しいかな今はそのエネルギーがありません。

新作オペラ『スマイル』

 オペラシアターこんにゃく座の新作オペラの紹介です。

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 『ロはロボットのロ』の作者鄭義信(ちょんういしん)さんの作品です。今回は戦争をテーマにした作品だそうです。

 笑いと涙が共存し、心に迫るこの物語は、今、このような時代だからこそ見て欲しい、とこんにゃく座の友人は言ってました。

 

オペラシアターこんにゃく座のホームページにある「スマイル」の紹介です。

www.konnyakuza.com

炎症指数 1

 日曜日の夜、ひどい熱と咳で救急車で病院に運ばれ、そのまま肺炎で入院しました。

 はじめは熱のために夜も眠れず、ごはんも全く食べられない状態でした。

 幻覚というのか夢というのか、目を閉じるとなんとも不快な世界に引きずり込まれ、すぐにまた現実の世界に押し戻され、ということを繰り返し、ほとんど眠れませんでした。

 三日目くらいから平熱に下がり、ごはんも食べられるようになりました。幻覚もなくなり、夜も眠れるようになりました。

 咳がひどく、発作が起きるともう苦しくて苦しくて涙がボロボロ出るくらいでしたが、それもずいぶん治まってきました。

 で、今日(土曜日)、血液検査をしたところ、なんと炎症指数が1まで下がっていて(入院時はこの数値が7以上でしたので劇的な回復です)、月曜日に退院していいと医者にいわれました。

 毎日抗生剤の点滴を2本ずつやってきましたが、これが効いたみたいですね。実によく効く薬だと思いました。

 

 病院は快適でした。

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 病棟の端にこんなラウンジがあって、すごく眺めのいいところです。ほとんど誰も来なくて、一人ここで本を読んだりブログを書いたりしていました。

 当たり前ですが、ごはんのしたくはしなくていいし、若い看護婦さんが入れ替わり立ち替わりいろいろ面倒見てくれるし、本当に極楽みたいなところです。

 先日は朝ご飯前に、ここでプロモーションビデオ・カナダ版を一人で試写しました。

 なかなか経験できない贅沢な時間でした。

 ブログを読んだ看護婦さんもいて、ちょっと話をしてみたら妹さんが精神障がいを持っていて、相模原事件の犯人についてのブログ、とてもよくわかります、っていってくれました。うれしいですね、こういう反応は。

 

 たくさんの方に心配していただきました。ありがとうございました。体力が落ちているので、少しずつ様子を見ながら復帰したいと思います。よろしくお願いします。

 病院というところは、本当に体を動かさないので、どんどんだめになっていく気がしました。それで体温が平熱に下がってからは毎朝、スクワットを30回くらいやっていたのですが、これくらいでは体力を維持できないですね。ふだんの暮らしをふだん通りに送ってこそ健康を維持できるんだとあらためて思いました。

 

 

肺炎で入院しました。

  土、日と咳がひどい上に高熱が続き、日曜日の夜39.9度まで熱が上がったのでさすがにかみさんが心配して、救急車を手配。救急車の中で、

「今日は何日かわかりますか?」

と聞かれ、すぐにぱっと出てこなくて困りましたが、高熱で救急車を呼ぶというのはそういうことなんだと、と思いました。電話で受け入れ先の救急病院に「意識正常」とか伝えていましたね。

 病院では血液検査、心電図、尿検査、レントゲンを撮り、ま、ここまではふつうの検査ですが、さらにCTの検査までやったので、ちょっと心配になりました。案の定、CT検査のあと、

「肺炎です。1週間ほど入院する必要があります」

といわれ、全く予想もしなかった展開に、

「う〜」

とうなるしかありませんでした。7日は「企業、NPO、大学を結ぶパートナーシップミーティングがありプレゼン用の資料も作り60部印刷していました。9日は出版社の編集者との打ち合わせ、10日はカナダ上映会でプレゼンする内容の英訳検討会、11日はカナダで上映する再編集したビデオの試写会を予定していました。自分の体のこととそんな予定のことが交差して

「う〜」

となったのでした。

 でもそんなことお構いなく、救急治療室から病室へ。ところどころ明かりのともった病院の中をベッドは移動していきます。かなりのスピードで移動する天井の風景は昔見た医療ドラマ「ベン・ケーシー」の冒頭の部分を思い出しましたが、映像で見るかっこよさとは裏腹に、実際にベッドの上で見ていると気持ち悪くなってきました。目を閉じてぐっと我慢しているうちに病室へ。

 夜中の2時半でした。ここまでつきあってくれたかみさんは家まで帰れるかしら、と心配していました。

 

 高熱のままだったので、夜は寝返りを打つばかりで、ほとんど眠れませんでした。

 

 翌朝の体温は38.8度。朝ご飯も昼ご飯もほとんど食べられず。朝はデザートのヨーグルトだけ、昼は鴨南蛮のおつゆにそばを2、3本ほどつけて食べただけで気持ち悪くなってギブアップ。土、日から全く何も食べてなかったので、さすがに心配になりました。

 朝から抗生剤の点滴がはじまりましたが、すぐに症状が改善されるわけでもなく、とりあえず解熱剤と咳止めを処方してもらい、午後は少し楽になりました。それでも布団をかぶってないと寒気がしました。

 午後にかみさんがパソコンと携帯を持ってきてくれたので、あちこち連絡しまくりました。何人もの人から「肺炎は甘く見ない方がいい」とか「退院してもふつうの元気を取り戻すのにすごく時間がかかります」といったアドバイスをいただきました。

 

 晩ご飯の時間。朝も昼も、見ただけで、体が拒否する感じで、ベッドからごはんを食べる椅子に移動できず、どうなっちゃったんだろうと思いました。晩ご飯も食べられるかどうか不安でした。ところが、晩ご飯は妙においしそうに見えました。ピーマンの肉詰め、野菜ソテー、ワカメの酢の物、白いごはん。みんなおいしく食べられました。特に白いごはんがおいしかったですね。うれしかったです。回復への大きな一歩のように思いました。

 

 

 貴重な経験、また時々経過報告します。

 

 

自分で道を切り開く人は必ずいる

 安倍政治がひどすぎます。この国はどこへ行ってしまうのか、本当に怖いくらいです。そんな中で少し前に書かれた高橋源一郎さんの記事は希望を感じる記事でした。
 
 
 
「多数決で勝った人が総取りで、勝手に憲法を解釈してもいいし、
力で押して法律を変えてもいいんだよというのは民主主義でもなければ
法治国家でもない。それを独裁制とか王制と呼ぶんです」

特集ワイド:この国はどこへ行こうとしているのか「平和」の名の下に 
作家・高橋源一郎さん
毎日新聞 2015年06月02日 

◇理解やめた先に戦争

集団的自衛権の行使を可能にする
安全保障関連法案が国会で審議入りした日。
鎌倉の緑に囲まれたギャラリーに現れた作家は、
意外なほど明るい顔をしていた。

ふと、4年前を思い出す。
東日本大震災の直後、
社会の雰囲気を巡って話を聞くと、
眉間(みけん)にしわを寄せ
「ちょっといやな感じ」と繰り返した。
時代の不透明感はむしろ強まっているとも
言えそうなのに、
この明るさは何だろう。

法案が通れば、この国は確実に
「戦争」に近づく。憲法、法律、
人の心、幾重にもかけられていた
ストッパーが一つまた一つと外されている。
「その方向に遠慮もなく
国を動かしている人々が、
戦争をしたがっているとまでは思いません。
彼らなりに分かりやすい国の形を
つくりたいだけなんでしょう。
でも、彼ら自身が想像するより
危険なことであるのは確かです」。
ストッパーがきかなくなれば、
「戦争という船」は人の意思を離れ、
勝手に針路を決めて
動き出してしまうから。

「希望はありますよ」。
4年前決して言わなかった言葉だ。

「まずは、
それぞれの個人が
安保論議に加わり、
憲法や個々の法律を
議題にして徹底的に
ディスカッションすること。
そこからです。まあ、
ここは相手の土俵に
乗ってあげましょうよ」。
肩の力を抜けよと促す様に笑い、
「ほんとうの民主主義」
について語り始めた。

この4年間、
民主主義の根本を知ろうと、
18世紀のフランスで活躍した
哲学者ルソーの「社会契約論」
を精読し、古代ギリシャ
統治制度に関する本なども渉猟した。
悩んだ末に新聞の時評を引き受け、
自らの視座を固めるために
欠かせない作業だった。

そうして見えてきたのは
「個人の多様性を認め、
大事にする精神」だ。
「みんな意見が違うってことは、
何ごとも決まりにくいということです。
でもそれでいい。全員違って仕方ないね、
と確認することが民主主義の
一番大切なところなんです」

3年前、民主党中心の政権が
「決められない政治」
と指さされて退場し、
「決められる政治」
を掲げる安倍晋三政権が誕生した。
その「決められる政治」が
憲法解釈を変え、法律を変え、
「戦争をする国」
に変えようとしている。

「多数決で勝った人が総取りで、
勝手に憲法を解釈してもいいし、
力で押して法律を変えてもいいんだよ
というのは民主主義でもなければ
法治国家でもない。
それを独裁制とか王制と呼ぶんです」

「決められる政治」
の化けの皮を容赦なくはがす。

「長期的に見て、いわゆる
『決められない政治』と
『決められる政治』のどちらが
人間を幸せにするか。
『決められる政治』は独裁につながる。
たぶん、『決められない政治』
の方が幸せだろう。
歴史上、民主主義を選んだ人々は、
そこに懸けたのです。
だから本来、民主主義を掲げる国に
『決められる政治』は
存在する方がおかしいんです」

もちろんルソーは、
多様性を最大限に認めながらも、
何かを決めなくてはいけない時の
ことも記している。

その場合、問題に関わる
「全員が意見を言い、
それを全員が理解すること」
が必要条件になる。
その上で「必要悪」として選挙をする。
そうやって決まったことには従うけれど、
決まった意見を提案した人は
「自分の意見に多くの人が反対している」
のをよく知っている。
「だから遠慮する。僕なんかの意見が
通っちゃってごめんねって。腰を低くして、
相手に譲れるところは譲る。
そう。これなんですよ」

「これなんですよ」と何度もつぶやいた。

毎日新聞世論調査では、
安保関連法案には5割以上が反対しているが、
安倍政権がアクセルを緩める気配はない。
そこには「意見が通っちゃってごめんね」
の精神はかけらもないように見える。

「そうです。今、安倍さんやこの国の空気は
『自分の意見と異なるやつは消えろ』ですから」

それにしても、である。
「ほんとうの民主主義」を歴史上、
そして今、どれだけの国が
手にしているだろうか。

「民主主義は、
これまで真の意味では
実現したことのない、
途方もないプロジェクトなんですよ」。
あっさりと言った。
民主主義の本家、欧州の国々すら
試行錯誤を続けているではないか、と。

一方、独裁制
その下で暮らす人々に
とってある意味、楽だ。
自分で考えなくても
誰かが決めてくれるし、
時には失政の責任すら取ってくれる。
それでも私たちを含む
多くの国は独裁制を嫌悪し
「民主主義のようなもの」
を守ろうとする。

「自分の意見を持ち、
他人の意見も聞く。
その作業の繰り返しが
人を成長させることを、
私たちが経験的に
知っているからだと思います」

思いついて
「自分の意見を持ち、他者の意見を
理解する能力もある国同士が議論した結果、
戦争を始めるようなことはあるか」
と問うてみた。

「ないでしょうね」。高橋さんは笑った。

「『戦争をする』とは
『相手を理解しない』と
決心することだから。
お互いにコミュニケーションが
図れているうちは
戦争なんて選ぶはずがないですよ」。

安保法制の抑止力に頼るのとは
逆の発想が、そこにある。

民主主義への
信頼とともに
高橋さんの希望を
強く支えているのが
「国や政権が何をしようが、
自分の居場所、新しい共同体を
つくろうとしている人たち」
の存在だ。
認知症を「病気」と見ず、
自立させることによって
元気にさせてしまう施設、
子供の多様性と自治を
最大限に尊重する学校法人、
たった一人でも
「独立国家」を宣言する人−−。

高い場所から国を見下ろせば、
人々は思考停止しているようにも見える。
だが草の根では、自らの頭で考え、
他者と話し合いながら
生きている人たちがたくさんいることを
この4年間に知ったという。
その間の時評や思索をまとめた
新刊には「ぼくらの民主主義なんだぜ」
とのタイトルをつけた。

「未来は混沌(こんとん)としている。
でも、どんな国になっていようが、
自分で道を切り開く人は必ずいる。
だから絶望することなんかないんですよ」

明るい表情の意味が分かった気がした。
私たちは、その一人になれるだろうか。
   
 ◇

「平和安全法制整備法案」に
「国際平和支援法案」。
安倍政権は国会に提出した
安保関連法案に「平和」と冠したが、
審議を通じてその不透明さが暴露され
「戦争に巻き込まれる」との懸念が広がる。
この国はどこへ向かうのか。
私たちは今、何をすべきなのか−−。
識者と考えたい。

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■人物略歴

◇たかはし・げんいちろう

1951年生まれ。明治学院大国際学部教授。
2012年、「さよならクリストファー・ロビン」で
第48回谷崎潤一郎賞受賞。
近著に「『あの戦争』から『この戦争』へ」
「動物記」など。
 
 

子ども達の前で、まっとうな大人でありたいです

 すばらしいブログに出会いました。

 

「あったものをなかったものにできない。」からもらった勇気 – キッズドア 渡辺由美子 オフィシャルブログ

 

  腐りきった政治を日々見せられている中で、前川前文部科学省事務次官の発言と、このブログは、こんな大人もいる!と、子ども達に希望を持たせます。

 

 そして私たちは子ども達の前でどんな大人をやっているんだろうと思いました。

 

 「障害者はいない方がいい」「障がい者は生きている意味がない」「障がい者は不幸しか生まない」と相模原障害者殺傷事件の容疑者はいいました。そしてそれを支える社会があります。「障害者はなんとなくいや」「社会の負担」だと。

 そんな病みを抱えた社会の中で「障がいのある人たちとはいっしょに生きていった方がいい」と言い続け、「障がいのある人たちの生きている意味の見える」ぷかぷかというお店を作り、彼らが大活躍する芝居を作ってきました。障がいのある人がいることでぷかぷかのまわりには幸福感が広がっています。

 子ども達が今日もたくさん来ました。子ども達はみんな見ています。

 お母さんの一人は「子どもはぷかぷかさん達のこと、障がい者だと全く思っていないよ」

 子ども達はしっかり見ていたんだと思いました。

 

 子ども達の前で、まっとうな大人でありたいです。世の中、まだまっとうな大人がいる、と希望を持たせたいです。

 

 政治家達、官僚達、国会でしゃべっていること、子ども達の前で恥ずかしくないのでしょうか?

 

甘夏が作る「人のつながり」、ステキな物語

  大学卒業して就職試験に落ちて2年ほどぶらぶらしていた息子がこの4月、突然淡路島に行って自然栽培の農業を始めました。その息子が5月21日(日)に中山の753カフェで開かれる大753市で野菜を販売するというのでびっくりしました。なんでわざわざ遠い淡路島くんだりから野菜を売りに来るのか、と。

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 いろいろたどっていくと、今パン屋、お惣菜屋で扱っている天草の甘夏にたどり着きました。

 今から25年前、天草で甘夏を作っている川野美和さんのみかん山について書いた文章が、友人の発行するミニコミ誌に載っていました。みかん山の匂いが漂ってくるような文章で、ぜひ会ってみたいと思い、年末に息子を連れて会いに行きました。息子はまだ八ヶ月の赤ちゃんでした。あいさつもそこそこにうんこを漏らしてしまい、困っていると

「お風呂使って洗えばいいよ」

と、川野さん。こういう事態は慣れっこという感じで、よくよく聞いてみたら、横浜旭区にある「土と愛・子どもの家保育園」を立ち上げた一人だといいます。

 「土と愛・子どもの家保育園」ができたのは今から43年前、障がいのある子どもも一緒に育てていこう、という趣旨で立ち上げ、当時はそんな保育園は皆無だったので、全国から建設資金のカンパが寄せられたといいます。そういうことにみんなでカンパするという、熱い、幸福な時代だったのだと思います。

 で、横浜に帰ってからすぐにその保育園に子どもをあずけました。保父さんがダウン症の青年でした。布団の上げ下ろしと泣いた子どもを抱っこする仕事をしていました。ちょっと太った柔らかい体で抱っこすると、不思議とみんな泣き止んでいました。ダウン症の人の優しい雰囲気が子ども達にも伝わったのだろうと思います。

 子ども達の中にも障がいのある子ども達が当たり前のように混じっていました。びっくりしたのは全盲の子どもがいて、みんなと同じように保育園の中を走り回っていました。今はステキなお嬢さんになって、2年前「ぷかぷか」を訪ねてきました。

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 手に持っているのは保育園当時、私が作ったパネル写真です。

 「土と愛・子どもの家保育園」でよかったのは子ども達に食べさせる食べ物をとても大事にしていたことです。食材はすべて自然食品のお店から仕入れていました。たとえば福神漬けは茶色でした。

 息子は小学校へ上がったとき、給食のカレーと一緒にでた福神漬けが赤い色をしていることが理解できず、「あれはなんだ」と家に帰ってから話していました。

 以来何かにつけ、保育園で食べ物を通して身についた食べ物についての感覚がずっと生きていました。

 そういった感覚があって、少し前から753カフェの畑仕事を手伝っていたようです。そのつながりで、今回淡路島に行った息子に大753市に野菜持ってこないか、と声がかかったようでした。BOIAGRIという農家グループの野菜を販売します。

bioagri.jp

 

 これが甘夏が作った「人のつながり」であり、ステキな物語です。

 甘夏を通して川野さんに出会い、川野さんを通して「土と愛・子どもの家保育園」に出会い、その保育園の食育に出会い、その食育が息子の食に関する感覚を育て、淡路島で自然栽培の農業をするようになったというわけです。

 甘夏は、何もしなければただの甘夏です。でも、思いを込めて甘夏を作り、思いを込めて食べると、こんなステキな物語を生み出すのだと思います。

 パン屋とお惣菜屋、その川野さんの甘夏を使った商品を並べています。ここからどんな物語が生まれるのか、楽しみにしています。

 

 

 「土と愛・子どもの家保育園」 ホームページ

  http://tutitoai.com