タカサキきんこんかん

タカサキのキンコンカンの日々

養護学校の生徒とヒロシマの詩を読む

 8月6日なので、もう一つヒロシマの詩を取り上げます。養護学校の教員をやっている時、生徒と一緒に、結構必死になってヒロシマの詩を読んだ時の話です。ちょっと長いですが、多分養護学校では初めての試みで貴重な記録になっています。

 
 高等部では2年生で沖縄に修学旅行に行きます。それに合わせて沖縄をテーマにした芝居を作りました。私が担当したので、旅行の1年前に下見に行きました。そのとき、読谷村の小さな公園のガジュマルの木のたたずまいがすばらしく、芝居の軸になる気がしました。曲がりくねった大きなガジュマルの木が、両手を広げて公園に覆い被さるように生えていました。子どもを守るお母さんのような感じでした。

 芝居作りはこのガジュマルの木の詩を書くところから始まりました。たいした詩ではありません。こんな感じです。

 

   わしはガジュマルの木

   おじいさんのおじいさんのそのまたおじいさんの

   子どもの頃からずっとここに立っている 

   晴れた日も、嵐の日も

   ずっとここに立っている

   そして村の出来事をずっと見てきた…

   枝のすみには  キジムナー

 

 

 ガジュマルの木にはキジムナー(子どもの妖怪)がいます。キジムナーの詩も書きました。

    オレはキジムナー

    大きなガジュマルの木がオレのすみか

    朝から晩まで寝てばかり

    夜になると、ようやく目を覚まし

    どこかへ ぶわ〜っと飛んでいく

    さぁ、こんやはどこへいこうかな

 

 と恥ずかしいような詩を書いたのですが、音楽の教師に曲をつけてもらいました。ガジュマルの木の歌とキジムナーの歌ができあがり、この歌をベースにお話を作りました。

 ガジュマルの木とキジムナーたちの楽しい日々からお話が始まります。時は沖縄で戦争のあった頃です。ある日アメリカ兵がやってきて、

 「明日の朝、あの村を攻撃する」

と言って、ガジュマルの木の下に大きな大砲を設置していきます。

 ガジュマルの木の精はあの村の人たちのことをよく知っていました。子ども達は時々ガジュマルの木に登りに来ていました。子ども達と一緒にお母さん、お父さん、おじいさん、おばあさんもきていました。みんなで三線をかき鳴らしながら、ガジュマルの木の下で踊っていました。明日の朝、あの村に大砲を撃ち込むと、あの子ども達も、そのお母さんも、お父さんも、おじいさんも、おばあさんも、みんな死んでしまいます。そんなことは絶対にあってはならないと、木の精はガジュマルの木にすんでいるキジムナーたちに相談します。

 キジムナーたちは夜のうちに大砲に魔法をかけます。

 さて、次の日の朝、兵隊たちがやってきて、攻撃の準備をします。

 「ねらえ、撃て!」

 「どかん!」

 大砲から飛び出したのは、たくさんの花束でした。ガジュマルの木の優しさとキジムナーたちの魔法が子ども達、お母さん、お父さん、おじいさん、おばあさんを救ったのでした。

 そんな芝居を生徒たちとやったのですが、芝居を作りながら、

 「大砲から弾が発射されるとどうなる?」

といった質問をすると、たいていは村人たちが死んでしまう、というのですが、その「死んでしまう」ということの悲惨さが、なかなかイメージできません。

 夜が明けたら村に向かって大砲が撃たれることを知ったガジュマルの木の精が、

 「ああ、困った」

 というのですが、言葉がどこか他人事でした。

 人が死ぬことの悲惨さをどうやったら生徒たちは想像できるのだろう、と思いました。

 いろいろ考え、詩を読むことにしました。峠三吉の「仮繃帯所にて」という詩です。内容的には目を背けたくなるような辛い詩です。詩を読むなかで、その辛さに向き合って欲しいと思いました。向き合うことで、人が死ぬってどういうことか想像して欲しいと思いました。

 

    『仮繃帯所にて』

   あなたたち

   泣いても涙のでどころのない

   わめいても言葉になる唇のない

   もがこうにもつかむ手指の皮膚のない
   
あなたたち

   血とあぶら汗と淋巴液
   とにまみれた四股

   をばたつかせ

   糸のように塞いだ眼をしろく光らせ

   あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐
だけをとどめ

   恥しいところさえはじることをできなく
させられたあなたたちが



   ああみんなさきほどまでは愛らしい
女学生だったことを

   たれがほんとうと思えよう

   焼け爛れたヒロシマの

   うす暗くゆらめく焔のなかから

   あなたでなくなったあなたたちが

   つぎつぎととび出し
   這い出し

   この草地にたどりついて

   ちりちりのラカン頭を
   苦悶の埃に埋める

   何故こんな目に遭わねばならぬのか

   なぜこんなめにあわねばならぬのか

   何の為に

   なんのために

   そして
   あなたたちは

   すでに自分がどんなすがたで

   にんげんから遠いものにされはてて
しまっているかを知らない

   ただ思っている

   あなたたちはおもっている
   
今朝がたまでの父を母を弟を妹を

   (いま逢ったって たれがあなたとしりえよう)
   
そして眠り 起き ごはんをたべた家のことを

   (一瞬に垣根の花はちぎれ いまは灰の跡さえわからない)
   おもっている
   おもっている

   つぎつぎと動かなくなる同類のあいだに
はさまって
おもっている

   かって娘だった
にんげんのむすめだった日を

                         (峠三吉

 

 私がまず朗読しました。みんなびっくりするくらい集中していました。授業中に彼らがこんなにも集中したのは、恐らくはじめて、といっていいくらい深い集中でした。あまりに深い集中に圧倒され、朗読のあとの言葉がなかなか出てきませんでした。こっちも必死になって、次はみんなに朗読してもらうことを伝えました。

 詩の言葉に丁寧にふれて欲しいと思いました。私の読むのを聞くだけでなく、自分で読む、声を出して読む、人の前に立って読む、そうやってようやく言葉にふれることができると考えていました。


 まず半分の生徒が前に出て、一人1行ずつ読みました。模造紙に書かれた詩に目を向けながらも、気持ちは朗読を聞いてる人に向けるように言いました。その人に向けて言葉を読む、言葉に含まれた気持ちを伝える、ということです。


 1回目はかなりぎくしゃくした読みでしたが、2回目は言葉に書かれた情景が彼らの中に少しずつですがイメージできた読みでした。聞いてる生徒も2回目の方が断然よかったといっていました。読む方もイメージできた分、読みやすかったといっていました。


 グループを交代して、やはり2回繰り返して読みました。

 次は二人で、今度は長いセンテンスで読みました。たまたまですが、女性二人で読んだこともあって、詩の中の
 
   ああみんなさきほどまでは愛らしい

   女学生だったことを

   たれがほんとうと思えよう

   ……

   あなたでなくなったあなたたちが

   つぎつぎととび出し這い出し

   ……

   そしてあなたたちは

   すでに自分がどんなすがたで

   にんげんから遠いものにされはてて

   しまっているかを知らない

   ……

「あなた」という言葉がしみて、わたしは聞きながら涙が出そうになりました。死んでいったのは多分同じ年ごろの女学生でした。そのこともあって彼らが読む時の「あなた」という言葉には力がありました。自分と重なりあう「あなた」への思い。

 読み終わったあと、生徒の一人は「毎日ごはんが食べられて私は幸せだと思います」と言い、もうほんとうにびっくりしました。ふだんはちょっと頼りない人です。でも、こんなすごい言葉がぽろっと出てきたのです。こういうことが詩を朗読することの面白さだと思います。詩の朗読は、人を自由にし、人を変えます。


 最後に一人で詩を全部読んだ生徒がいました。この詩を人の前で全部読むのは相当なエネルギーがいります。私自身、ほんとうに気合いを入れないと読めませんでした。それを手を上げ、一人で読みます、といったのです。この詩を読む辛さを全部一人で引き受けるというわけです。人前に立ち、声を出しながら、この詩に向きあおうというのです。

 
言葉にならない感動がありました。

 

 

  ★このブログを読んでいただいたあなたへ。

   「仮繃帯所にて」をぜひ声を出して読んでみてください。