タカサキきんこんかん

タカサキのキンコンカンの日々

名前のない死は、悲しいです。

  学生の頃、石原吉郎という詩人が好きでした。シベリア強制収容所での過酷な体験が生と死を考える原点になっている詩人です。その詩人のエッセイにこんな文章があります。(学生の頃読んだものですが、いまだに頭に残っています)

 

 ジェノサイド(大量殺戮)の恐ろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。その中に一人ひとりの死がないことが私には恐ろしいのだ。…死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、一人ひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ。(石原吉郎「確認されない死のなかで」)

 

 「障害者」「19人」というくくりのなかでの死からは、一人ひとりのかけがえのない人生がどこかへ行ってしまいます。一人ひとり名を呼び、その人の人生を想起すること、そのことが亡くなった方への礼儀ではないかと思うのです。それは障がいがあるとかないとか以前の、人の死にどのように向き合うのか、といった問題だろうと思います。

  

 今朝も朝日新聞に相模原での事件で犠牲になられた方の記事が載っていました。

digital.asahi.com

 名前のない死は、どこまでも悲しいです。